JR京橋駅南口で8月14日、55回目となる京橋空襲被災者慰霊祭が行われた。
1945(昭和20)年、太平洋戦争終戦のわずか1日前に起こった京橋空襲は大阪城公園にあった造兵廠(兵器工場)を狙って壊滅させ、近くの京橋駅を直撃、犠牲者は500人とも600人ともいわれている。損傷が激しく身元確認のとれない犠牲者も多数。一瞬にして焼け野原となったその壮絶な光景は、今なお遺族や生存者はじめ、体験者の脳裏から離れることはない。
「ここらは辺りは一面死体の山やった」――当時を振り返り語るのは参列者、村島肇さん(81)。村島さんは当時、空襲により破壊された京橋駅の仮駅舎の建設を手伝った人物の一人だ。焼けただれ血を流した死体が無数に転がりウジがはう様子。母親が死んでいるのを発見した無残な幼子の姿。それら悲惨極まりない光景を目にした村島さんは「平和慣れしとったらあかん。戦争の怖さを知っている者が、正しく後の世代に伝えていかなあかん」と力を込める。
JR京橋駅の今川正和駅長のあいさつで始まった同慰霊祭。この日の参列者は約250人で、年々増えてきているという。空襲の生存者である同慰霊祭世話人会会長の京極利明さんは「いまだにこの京橋駅を走る電車の音が爆弾落下の音を思わせて恐ろしい。何十年経とうがあの(爆弾の)音が耳に残っている」と話した。
戦争体験者の高齢化が進む今日、「戦争を知らない者にいかにその恐ろしさを伝えていくか」が未来永劫(えいごう)の平和へ向かう最大の課題といえる。