JR京橋駅南口で8月14日、第57回京橋駅空襲被災者慰霊祭が行われた。終戦の1日前に起きた大阪空襲は京橋駅を直撃し、その犠牲者は500人とも600人とも言われ実態はつかめていない。
慰霊祭は午前11時、JR京橋駅・柳生頼成駅長の「戦争を繰り返さないために、この悲惨さを語り継ぎ、未来への架け橋とならないといけない」というあいさつから始まった。
1945年8月14日12時30分頃、空襲警報が鳴り響く京橋駅のホーム。駅にいた大勢の人々は環状線の高架下にあたる片町線(現東西線)のホームに逃げ込んでいた。そこへ環状線の天王寺行きと大阪行き電車が同時に京橋駅に進入したその瞬間、1トン爆弾が駅のホームを直撃した。京橋駅は一瞬で焦土と化し、瓦礫(がれき)の山に埋まる死体、飛び散る手足や肉片、人々の叫びが飛び交う生き地獄となったという。
慰霊祭には毎年訪れるという寝屋川市に住む80歳の女性は、この京橋空襲で当時18歳の姉を失った。姉は防空壕に逃げ込んで被災したため、発見されるのが1カ月ほどかかったという。女性は「今年の震災で行方不明になっている被災者のご家族を思うと、当時が蘇って胸が苦しくなる」と東日本大震災の被災者に思いを寄せた。当時、学徒動員されていた高原秀夫さん(78)は「人間は平和を作れるが、平和はちょっとした心の緩みから崩れていく。平和な時代こそ気を引き締めていかなければならない」と真剣な面持ちで話した。
慰霊祭の祭壇には地元・聖賢小学校の全児童たちによる千羽鶴も供えられた。聖賢小学校では今年6月、被災者である同慰霊祭世話人会会長の京極俊明さん(80)を学校に招き京橋空襲の体験を語ってもらった。今年の参列者は約250人。京極さんは、「戦争体験者は年々減っているのに参列者はむしろ増えている。若い世代に関心を持ってもらうのはとてもありがたく思う」と語った。